自分はまだ子供だ。大人になりたい、強くなりたいと思っていても、子供である事に変わりは無く、全てにおいて限界と言うものがある。それは力も、経験も、知識も、存在も、大人と比べられるもの全てを対象としているのだ。そんな全てが小さく見える今、唯一理解が出来る事…それは、自分の目の前にいる人物が、見習い風情である自分では敵う様な相手では無いと言うことだろう。
 苦しい呼吸を整えようと必死に酸素を求めても、肺に入り込むものは空気では無い、重苦しい鉛にも似ていて、上手く働こうと必死な脳には伝わってくれない。じわり、と滲む汗と涙を感じながら自分の家であるモビーの後甲板に尻餅をつくマルコの周りには自分と同じ海賊見習い仲間が意識を失って倒れていた。
 わからない。何が起こったのか。一体、目の前の人物が、自分達に何をしたのか。
「…ッ」
「驚いた。その年齢で覇気に耐えるのか」
「は、き…?」
 初めて聞く単語。ぼんやりと脳内に意味もわからない単語をただなぞるように流したマルコであったが、今はそれどころでは無い。どうしてこうなったのだろう。マルコは肺に空気を送り込む運動を必死に繰り返しながらこうなった経緯を思い返す。
 そう、自分達はただ、攻め込んできたロジャーの船への戦闘態勢として後方の見張りを頼まれていただけなのに。ロジャーは敵だが卑怯な男では無い。正々堂々を好む男なのだと白ひげはライバルとしても相当高く評価している。だから、本来後方の見張りなどしなくても良いものだが、それは遠回しにこの戦いを安全な場所で見学していろ、と言う隊長達の優しさなのだ。
 だからこそこんな安全を約束された場所で、冥王と恐れられる敵船の副船長と対面するなんて想像もしなかった。前方と隣に着けられた船からは未だに剣や銃を交える音があがっていたが、今のマルコからして見ればこの後甲板だけレイリーの腰に掲げられた剣で切り離された様に、静寂に包まれていた。
 唯一、耳に付くのは目の前の、静かだが重みのある男の声のみ。
「君の名前はマルコ、だったか?」
「…っ!」
「質問に答えてくれないか」
「ッん、ん…」
 冥王の肩書きを持つ男、レイリーが口にした言葉へと必死に首を縦に振るマルコは、最早何も考えられず、ただこの男に従うだけとなっていた。思えば、ロジャーと会話を交わした事はあれど、この男とはまともな会話をしたことが無い。元々ロジャーは宴会好きで良く白ひげを誘い宴を開いて騒ぐのだが、レイリーはどこかそんな騒がしい宴から一線を置いて、静かに酒を煽っていることが多い。
 知らないは怖い。レイリーとのまともな対面がこのようなものでは抱く感情は間違いなく恐怖だけだ。縛られた様に動かない体を動かそうと試みるが、残念ながらそれは叶う事の無い現実。かつん、と鳴らされる靴音にいちいちびくつく体が憎らしく、靴音を重ねる毎に近付く距離…その音が終わりを告げた先、尻餅を付いて震えるマルコと、しゃがみ込んだレイリーの、視線が絡まった。
「あ、あ…!」
「震えているね…私が怖いか?」
 伸びてきた手で何をされるのかと、反射的にぎゅう、と瞼を閉じたマルコであったが、その手はマルコを痛み付ける事は無く、恐怖ですっかり熱を失ってしまった頬に滑らされる。温かい、心地の良い体温が浸食する様に共有を許し、頬に位置を置いた。自分に恐怖を与えていた相手からの接触は反比例となる安心も同時に流し込まれた気がして、段々と気持ちが落ち着きを取り戻し始める。
 すう、と冷えてきた心の中、抱いたのは大人びようと必死になる子供ながらの背伸びと強がりの気持ちだ。
「…今、なんて言ったんだよい?」
「私が怖いか、と聞いたのだが…」
「ナメんな、オレは白ひげの息子だよい」
 伸ばされた手首を小さな手で掴み、目一杯の力を込めて抵抗を示したマルコの瞳に、もう恐怖は映っていない。恐怖に怯えていた心と体を、これだけの短い間に切り替えられると言う小さな少年の強いメンタル面に流石のレイリーも驚きを隠せない様だ。
 しかも、恐怖を相殺したどころかそれ以上の抵抗を見せている…青い瞳が、ぎり、と自分を睨み付ける姿は、周りから見れば僅かな抵抗と思うかもしれないが、レイリーはそれが大き過ぎる抵抗に感じていた。
 この覇気に耐え、即座に気持ちを切り替える勇気ある少年は、きっと将来大きく羽ばたく事となるだろう。自分には捕らえきれない程の存在に。
「強気な子は、嫌いじゃないよ」
「おれは、お前が、嫌いだよい!」
「そうか」
「え、ッなに…!」
 マルコの手を振り払い、手早く後頭部へと手を回したレイリーは、戸惑うマルコを自分の元へ引き寄せると、無防備となった首筋に唇を押し付ける。誰にもされた事の無い未知なる行為に一瞬、首を食い千切られるのでは無いかと思い、マルコは僅かながらに怯えたが、その想像が違う事は直ぐに立証された。
 ちく、とした小さな痛みは生傷の耐えない海賊からして見れば他愛の無いものだ。しかし、それはじわりじわり、と内部からくすぶる様な熱を生み出して体に熱を与えて…例えるならば、それを合図に小さな炎が業火となって体を浸食し始める様な、そんな体の変化。
「ッ止め、」
 こんな行為、自分は知らない。切り取られた世界、マルコは眉を寄せて、この冥王によるこの行為が早々に終わることを望んだ。
 次に空気を震わせたのは首筋から唇が離れる水音。レイリーがマルコの首筋から離れた事により、再び顔を合わせる事となった二人だが、最早マルコに先ほどの余裕を保つ元気は存在していなかった。産みつけられてしまった熱に耐え、涙を潤ませたその姿に、レイリーは一つ、笑みを零す。
「…綺麗だ」
「え?」
「君を気に入ったんだよ、マルコ」
「気に入った、って…」
「また、会おう」
「ん…っ」
 次は、唇の端にキスを落とされて、マルコの表情は赤を混ぜて驚きのものとなった。気に入った。その言葉の真意は分からないが、とにかく自分はこの人物に目を付けられてしまったらしい。
 また会おう。と言う言葉と共に隣の船へと軽やかに飛び去って行ったレイリーの後ろ姿を見ながら、マルコは自分の体を抱き締める。また、あの人に会うのが怖い。でも、再会を考えると何故か体が熱い。感触の残る首筋に爪を立てても、その熱は消える事無く、激しさを増した。
 まるで魔法。首筋への口付けが魔法の呪文の様で、その呪文を合図に自分は彼に支配を許してしまったと言っても過言では無いだろう。ならばいっそう、魔法と言う自分ではどうにも出来ない未知なるものせいにしてしまえば楽なのかも知れない。
「冥王、レイリー…」
 その名を呼べば、心の中の彼の存在が色濃く映って、マルコは思わず首を横に振る。その名も彼のかけた魔法の呪文の一部なのだろうか。だとしたら何て質が悪いのだ。
 『また』何て無ければ良いのに。マルコはただ一心にそう思うのだった。